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皇御國弥栄


by shikishima2600
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憂国の士!防衛省 航空幕僚監部 幕僚長 田母神俊雄氏(たもがみ としお)

防衛省 航空幕僚監部 幕僚長 田母神俊雄氏
憂国の士!防衛省 航空幕僚監部 幕僚長 田母神俊雄氏(たもがみ としお)_d0130164_8215464.jpg



日本は侵略国家であったのか 
                       田母神俊雄


アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留して
いる。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意
された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮
半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留
も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19
世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手
国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府
から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露
戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守
るために条約等に基づいて軍を配置したのである。

 これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約
そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない
条約など存在したことがない。

 この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人
に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日
本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛
け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、と
ても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を
追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコ
ミンテルンに動かされていた。 1936 年の第2次国共合作によりコミン
テルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込ん
でいた。コミンテルンの目的は日木軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊
させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

 我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年
8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膚懲し以って南京
政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表し
た。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なので
ある。

 1928年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われ
てきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本
軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢
東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄
文雄、ワック出版)」及び「日本よ、歴史力」を磨け(楼井よしこ編
文藷春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が
極めて有力になってきている。

 日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件についても、こ
れまで日木の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、
東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で
「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」
と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間
書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強
といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。 
  
 よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、
日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しよ
うとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとし
た国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な
植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932年1月に
は3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、
1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は
何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからで
ある。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけ
がない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15
年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮
半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と
約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。

 日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本
においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊
されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の
努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活
水準も格段に向上したのである。

 我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に
力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残して
いる。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北
帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立
したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。
その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939年の名古屋帝
国大学という順である。

なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を
造っているのだ。また日木政府は朝鮮w人も中国人も陸軍士官学校
への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身
の洪思翔という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、
硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。

朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後
輩には金錫源大佐がいる。 日中戦争の時、中国で大隊長であった。
日本兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍
を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂い
ている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日木の
陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。
1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽もいる。

李王朝の最後の殿下である李垠殿下も陸軍士官学校の29期の卒業
生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日
本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重
に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。
陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃とな
られたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃
候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもり
ならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかった
であろう。因みに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。
現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州
帝国皇帝であった溥儀殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたの
は、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

 これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満
州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っ
ていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがイン
ド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士
官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインド
に嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメ
リカなどの国々でも同じことである。

 一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、
満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いてい
た。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことであ
る。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条
約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付さ
れたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの
世界になっている。

 時間は遡るが、清国は 1900年の義和団事件の事後処理を迫られ
1901年に我が国を含む11カ国との間で義和団最終議定書を締結した。
その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2 600 名の兵を置
いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。また1915年に
は袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、
いわゆる対華21箇条の要求について合意した。
 これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が
列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識列強の植民地支配が一
般的な当時の国際常識それほどおかしなものとは思わない。
中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4年後の1919年、
パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21
箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフ
ランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日木史から見
た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党
との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認
の下に軍を進めている。 1901 年から置かれることになった北京の日本
軍は、36年後の廬溝橋事件の時でさえ5600名にしかなっていない「廬
溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数
十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原
喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基木方針で
あり、それは今も昔も変わらない。

 さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に
突入し3百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本
は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。 しかしこれも今
では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕
掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテ
ルンに動かされていた。 ヴェノナファイルというアメリカの公式文書
がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。

 膨大な文書であるが、月刊正論平成18年5月号に青山学院大学の福
井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。 ヴェノナ
ファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信
記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8
年間これをモニターしていた。当時ソ連は1回限りの暗号書を使用し
ていたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、
日米戦争の最中である1943年から解読作業を開始した。 そしてなん
と37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って解
読作業を終えたというから驚きである。

 しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密
文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開
されることになった。これによれば1933年に生まれたアメリカのフラ
ンクリン・ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイ
がいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官
ハリー・ホワイトであった。

 ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本
人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモー
ゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日
米戦争に追い込んでいく。 当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを
認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルン
の工作を受け、戦闘機100機からなるフライイングタイガースを派遣
するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻
撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し
隠密に航空攻撃を開始していたのである。

 ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日
米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必
要があった。 日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を
決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。
日木がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ
日米戦争を避けることは出来たかもしれない。

 しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強
食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2、第3の要求が出てきた
であろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは
白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。
文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつ
かは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争
によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。
戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

 さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支
配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問
題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そ
して大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。 もし日本があの
時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るの
があと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たち
は日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英
霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊
かな生活を営むことが出来るのだ。

 一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争
などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているの
であろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかり
である。やらなくてもいい戦争をやって多くの日木国民の命を奪った。
亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。
しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。
現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難で
ある。 日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地
を保有している。 これを日木が返してくれと言ってもそう簡単には返
ってこない。 ロシアとの関係でも北方四島は60年以上不法に占拠さ
れたままである。竹島も韓国の実行支配が続いている。

 東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたもの
である。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお
日本人を惑わせている。 日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略
する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうという
ものである。 自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出
来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁
止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きでき
ないようになっている。 このマインドコントロールから解放されない
限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメ
リカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメ
リカ化が加速する。 日木の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法
もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国
の伝統文化が壊されていく。

 日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。 日本国民は
20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。
 日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定し
ているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係
が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関
係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼り
きっているような関係は改善の必要があると思っている。

 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を
未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく
普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き
届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがた
い苦しみを与えたと思っている人が多い。 しかし私たちは多くのアジ
ア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要
がある。 タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシ
アで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。

 そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を
与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴して
いる場合が多いことも知っておかなければならない。

 日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人
の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。
私たちは日木人として我が国の歴史について誇りを持たなければなら
ない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自
分の生まれた国を自然に愛するものである。 日本の場合は歴史的事実
を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいこと
であることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を
向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中
でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本
の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の
一途を辿るのみである。





田母神俊雄
略歴

* 1971年(昭和46年)3月:防衛大学校卒業(15期、電気工学専攻)
* 1986年(昭和61年)1月:2等空佐昇任
* 1990年(平成2年)1月:1等空佐昇任
* 1991年(平成3年)8月:航空幕僚監部防衛課
* 1993年(平成5年)12月:第3航空団基地業務群司令
* 1996年(平成8年)7月:空将補昇任
* 1997年(平成9年)3月:南西航空混成団司令部幕僚長
* 1998年(平成10年)7月:第6航空団司令
* 1999年(平成11年)12月:航空幕僚監部装備部長
* 2002年(平成14年)12月:空将昇任、統合幕僚学校長
* 2004年(平成16年)8月:航空総隊司令官
* 2007年(平成19年)3月:第29代航空幕僚長
* 2008年(平成20年)11月:田母神論文問題により更迭
by shikishima2600 | 2008-11-02 08:21